想いをよせて-01

想いをよせて20年近く経つ。
彼、JMSとの出会いは、友達のアルバイト先の小さな小料理屋。友達は「阿修は、英語が話せるからおいでよ!おもしろい外人が来るよ!」と誘って来た。私22歳、彼も22歳の初夏、6月か7月だったと思う。専門学校で英会話を学んでいたとはいえ、ネイティブと話す機会はほとんど無かったので、力試しと遊びに行ったのが出会いだ。不思議なもので、彼は逆光を浴びてお店に入ってきたので、後光が差して見えた。とても物静かな人だった。その頃私は、どちらかと云うと反米感情を持っていたので、ふ〜ん静かなアメリカ人もいるんだ〜ぐらいにしか思わず、一緒にいたNZ人に興味津々としたのを覚えている。でも話をしているうちに、読む本、見る映画、等々共通のものが好きだってことが分かって来た。そして、知らぬ間に恋に落ちていた。
出会ったときの彼は、日本に来て一年ほどだった。母国で日本語は学んではおらず、日本に来て日本語を学んだ。一年でかなり丁寧な日本語を話せるようになっていた。学生ではなく、企業の英会話教室で英語を教えていた。母国では、大学生。大学を休学していたところを、彼の友達でクウォーターの子に、日本へ来たらと誘われたのだそうだ。日本へ来て、半年ほどして、私の住んでいる町の隣町に越してきたそうだ。その町の駅のホームでNZ人のロブに声を掛けられ、彼の行きつけの小料理屋へ連れて行かれた。そして、私と出会った。
彼は、ボストンの生まれで、東海岸側で育った。あまり癖の無い、聞き取りやすい英語を話した。私との会話は、当時は日本語。後になって、私がアメリカ大陸へ渡ってから、英語でのやり取りをするようになる。ほんとに物静かな人で、読書をこよなく愛していた。物書きになりたいとも云っていた。そのため、旅もしたいと。
映画を見に行ったり、友達の家でのホームパーティーへ一緒に行ったり、日光へ一泊旅行をしたり、ヒッチハイクして京都まで行ったり、毎日が楽しく過ぎて行った。 12月になり、クリスマスが近づいていた。彼は前年のクリスマスを、日本で過ごしていた。その年は家族と会うために、そして、旅をするために12月の初旬に離日した。そのころ流行っていた曲にスザンヌ・ヴェガのTom's Dinerがある。私も彼も、この曲が好きであった。特に彼はこの曲がお気に入りで、「声が美しいね。歌詞も良いよね。」と良く言っていた。彼を空港へ見送るとき、偶然この曲が街で流れてきた。それ以来、私はこの曲を自分から聴くことはできくなった。ほんの少しの別れでしかないのに、ダメージは思いも因らず重かった。
次の年の3月、彼は日本へ戻ってきた。私に会うため、そして旅の続きをするために。彼の旅は、バックパックである。安全な国では、ヒッチハイクもする。ボンビー旅である。前年の旅は、日本から、中国へ渡り、ロシア(当時はソヴィエト連邦)へ入り、シベリア鉄道でヨーロッパへ抜け、アメリカへ。日本に来た彼は、早々に次の旅の準備を始めた。このときの滞在期間は、6ヶ月間だけ。あっという間だった。このときの旅は、中国経由で、中東へ向かい、ヨーロッパへ抜ける旅だった。彼が旅へ行ってしまうと寂しい。でも、手紙を書いてくれた。訪れた国々の文化や歴史を私に教えてくれた。遠くにいても、いつも繋がっていた。日本へ来る前から、この計画は教えてもらっていた。私も行動にでることにした。私のできることと、私の望み。出来る限り、少しでも多くの時間を一緒に過ごしたい。今回の中東への旅は一緒に行くことが出来なかったので、その間お金を貯め、ビザを取った。ワーキングホリデイのビザである。
当時の彼のアメリカでの拠点は、西海岸、オレゴン州ポートランドであった。美しくそしてとても可愛い街である。アメリカでは、ワーキングホリデイの制度が無いため長期滞在することは出来ないので、ワーキングホリデイできるカナダ・ヴァンクーバーへ行くことにした。ポートランドとカナダ・ヴァンクーバーは、近くない。長距離バスで8時間かかる。(何故、バスか、、、ボンビーだからである)それでも、アメリカはビザなしで3ヶ月滞在できる(この年から、ビザ無し渡航が解禁:後で大変な目に遭うことになるのだが...)喜び勇んで、次の年の1月にアメリカへ渡航。飛行機でポートランドの地に降り立った。

つづきは、また今度。。。少し寝ます。