想いをよせて-02

今でも彼との思い出の品は幾つかとってある。手紙は全て保管してある。別れたということ以外、何も嫌な思い出がないから。
ポートランドへ着いて、1ヶ月半は彼の家に居候させてもらった。その家には、コリーナという彼の大学の友だちが住んでいた。JMSは彼女と家をシェアして暮らしていた。モンタナ出身で、明るく気さくな女の子だった。彼女は会社を設立し、広告会社を営んでいた。そう、私が初めてコンピュータを触ったのも、彼女の持っていたマッキントッシュだった。彼女の当時のBFは、JMSの親友でビルといった。ビルは、私が訪れたときは、どこか旅をしていたのでその時は会うことができなかった。JMSは、ポートランドで一番大きな本屋(今でもある:Powell'sBooks)で働いていた。残念ながら、彼が働いていた旅行専門の支店はすでに無いようだ。
彼らの家は、可愛かったがすごくボロだった。1階はリビング・キッチン・バス・トイレ・コリーナとビルの部屋。2階にJMSの部屋と空き部屋があった。1階は普通である。2階、、、天井や床、ドア、、至る所が壊れていた。JMSの部屋にはドアがない。でも雨漏りもしないし、荷物を置いて、寝て、読書したり少し物書きをするには十分な部屋だった。楽しかった。コリーナも彼も、昼は仕事があったので、私は一人その家で過ごした。たまに観光と称して、ポートランドの街をブラブラした。お気に入りの場所は、彼の働いていた本屋のある、パイオニア・コートハウス・スクエア。ダウンタウンの中心で市民の憩いの場。なだらかな階段があって、そこに腰掛けて彼の仕事が終わるまで、気ままに読書。そして、ポートランド・アート・ミュージアム!!そこで、すばらしい中南米の文明遺産に魅せられた。何度も行って、ず〜っと眺め、想像して楽しんだ。ほんと何度も通った。
当時パウウェルズの彼の同僚で、シンディーという女性がいた。たしか、そのとき40歳だったと思う。おもいっきり私の想像するアメリカ人だった。とても明るく誰に対してもオープンで優しい。JMSとも仲が良く、JMSの彼女というだけで私を大層可愛がってくれた。1月の終わりに、シンディーが遊びに来いとJMSを誘った。私も付いていった。部屋はとても雰囲気よくデコレートされていた、と、、、彼女がバースデイケーキを焼いて、ハッピバースデーの歌を歌ってくれた!!私の誕生日だった。照れた。。アメリカ人は、英語が話せて当然と思っている人たちがかなり多い。シンディーはいつも、ゆっくり分かりやすく話しかけてくれた。私の発音が悪くても、決して笑わない。とても素敵な人だ。あるとき、本屋の本店へ遊びに行って、彼女を探した。探し当てたシンディーがしゃくり上げて泣いていた(アメリカ人....)。その場は、そっとそのままにして、JMSのいる支店へ飛んでいき、事情を話した(泣いている理由は良く分からない、でもシンディーが困っている、悲しんでいる、泣いている)。二人で相談し、お花を一輪(JMSは飴が良いと最初云った....)買って渡してあげようと云うことになった。JMSはまだ仕事中だったので、私が花を一輪買ってシンディーのところへ行った。彼女は、両手を大きく広げ私をハグしてくれた。シンディーは大きい。心もジェスチャーもそして、身体も。横幅は私の倍はある。ムギュ〜っときつく抱きしめてくれた。
2月も半ば、とうとうバンクーバーへ向かうこととなる。出発の日、ポートランドは快晴。うきうきワクワク、長距離バス・グレイハウンドに乗って出発した。カナダ国境にて入国審査を受ける。ワーキングホリデイのビザもあるし、何も問題ないと思っていたら、、、、私の前に入国管理の若い審査官がいる(とても感じ良くバンクーバーを褒めたたえていた)、彼の向こうに大きなガラス窓があり、外を審査済みの車やバスが通っていく。その中に私の乗っていたバスがあった。「ねえねえJMS!!あれって、私たちの乗ってたバスじゃないの!?」私たちは、国境に置いていかれた・・ 一部始終を見ていたその若い審査官が、バス会社に電話して全て交渉してくれた。バス会社がタクシーを国境まで寄越してくれ、タクシー料金もバス会社持ちとなった。タクシーが国境へ着くまで時間を取られてしまったので、バンクーバー市内に入ったのは夜8時を回っていたような気がする。真冬である。真っ暗であった。その上、何十年ぶりかにバンクーバーに雪が降っていた。